カテゴリ:比較文化・授業へのコメント( 20 )

 

2/3(最終回)の授業へのコメント

まず私(大脇)から一言。最終回だったということもあり、たくさんの人がとても心のこもった、好意的なコメントを寄せてくれました。また、一年間の授業を通して、これまであまり考えたことのなかった問題や、何となく興味はもっていたけど深く知らなかった問題について知ることができ、考えるきっかけをもらったなどのコメントも非常に多く寄せられました。(←何より嬉しいです。)
みんな、どうもありがとう。
私自身も、この一年間を通じて、いろんなことを学んだと思います。特に、毎回の授業でみんなからもらったコメントから、本当に多くのことを学ばせてもらいました。それまで自分では気づかなかった視点や論点に気づかされたり、励まされたり、ときには耳の痛い批判的なコメントに反省を促されたり、・・・今、一年間を振り返ってみて、そうしたみんなのコメントすべてが、この授業の血となり肉となったのではないかという気がしています。みんなに書いてもらったあのA5判(?)の紙の束は、私の大切な財産になると思います。
毎回出席・コメントカードを集めるというやり方に戸惑う人もいるかもしれないと思ったのですが(そしてそういう人も実際いたかもしれないのですが)、一年を通じて、毎回真剣にコメントしてくれる人が非常に多く、これには正直なところ、新鮮な感動と驚きを覚えました。それで思ったのは、最近の若者や大学生はものをしっかりじっくり考えないとか、無気力だとか言われることも多いけれども、実際には、みんなそれぞれ、いろんなことをかなり真剣に考えているんだな、自分の伝えたいことをもっているんだな、ということです。このコメントカードを通じて、みんなの一人一人と(ささやかながらも)コミュニケーションができたのではないかなと思っています。
私が横国大にいられるのもあとわずかになりましたが、もし大学の内外で見かけたら、(よければ)ぜひ気軽に声をかけてくださいね。それから、2/10の期末試験が終わった後、残ってくれた人たちみんなと、お茶でも飲みながら(そしてそれ以降も残れる人とはお酒なども飲みながら)、ゆっくり話をする時間をもちたいなと思っています。残れる人は、試験終了後、5時頃に、図書館カフェ(かその周辺)で会いましょう。

それでは、ようやくここから、最終回授業でのみんなのコメントです。

N. Y.: 一年間お疲れさまでした。この授業で、「政治的」からみが何事にもあることが分かったことは衝撃でした。世の中をきれいに見すぎていたなと自分の甘さを痛感しました。アイデンティティという難しいテーマに大学に入って触れてこられたのもいい機会になりました。あと、普段は見ないような映画を見ることができてよかったです。僕は映画好きなので、一回、映画議論なるものをしたかったです。

Y. I.:文化とかアイデンティティという言葉に何となく興味を持っていたけど、この講義を受けるまでは、マイノリティの人々がアイデンティティを確立する具体的な話は少しも聞いたことがありませんでした。今日見たマーガレット・チョウにしても、今まで見て来たアジア系アメリカ人の人々も皆、それぞれに個性的でエネルギッシュで、とても素敵な人々だと感じました。文化を学んだり、人種について考えるには、実際に“人”を見ないとだめだなあと感じました。本を読んだりすることも大事だけど、音楽や絵画や小説などの作品に触れたり、それを発している“人”を感じることってとても素敵なことだとわかりました。一年間ありがとうございました。

T. E:一年間この授業を勉強して、アイデンティティやジェンダーといったものへの見方や認識を変えられた気がします。

K. F.:この一年間で自分が知らなかった様々なことを知れて、また生きる上で必要なことだと思うのでよかった。これからももっと世界中で起こっていることを知っていきたい。

R. O.:価値観も、言葉の意味も、考え方もすべてもともと正しい形があるのではなくて、つくられているもので、作り変えていけるものなのだと思った.

K. M.:この授業を通して自国の文化を客観的に見ていくことができたし、他国の文化や自国との違いなど様々な面から学ぶことができた。文化は人間によって作られた優れた面や醜い面など様々な性質を持ち、世界を形成して来た。文化を知ることはその国や世界の歴史を知る重要な手がかりであり、自分の考えを深めてくれる、自分にとってプラスとなるものであると思った。一年間ありがとうございました。

N. K.:一年間ありがとうございました。ひとつの概念について多角的な視点を持つことが出来るようになりました。人の気持ちや考え方を変えることはなかなか難しいけど、自分の考えは見直すことができると実感しました。社会の空気や常識、マスコミによる情報などに流されず、自分の目を信じて、世の中の出来事を判断する力が必要です。それを考え、今日見たビデオのように、自分を認め主張する姿が、一人の人として尊敬できると思いました。

T. K.:アイデンティティ・ポリティクスという言葉が、自分のなかにあったいろんなもやもやを整理してくれたように感じました。「沖縄」という概念にしばられつつも、それに違和感を持つこともあり、自分の中に2つの対立するアイデンティティが併存していることに気づきました。人種とか文化とかって、必ずしも対立するものではなく、個人の中に共存することもある概念で、そこが難しいところでもあり、マイノリティもマジョリティも引きつけるところだと思います。人種の壁をどこにおくのか、どこまでを含めるのかを定義することはできないから、ずっと続いていく議論なんだと思いました。とても深い内容で、大変だったけど、意味のある授業でした。ありがとうございました。

N. T.:映像を見せて「ここはこう」「ここはこういったロジック」という形式がメインだったように思います。バラエティに富んだ内容を紹介していただけたのは無論、有益なものでしたが、若干つまみ食い的になっていた観も… もっと先生自身のアイディア、お考えを聞いてみたかったです。挑発的に議論を吹っかけてみるのも楽しいかもしれません。自分のことで精一杯な試験期間中ですが、先生アメリカでもどうか御達者で。ありがとうございました。

大脇:むむ、痛いところを突かれましたね。そう、私も実はそのことが気になっていました。もともと、経済学部の学生に、「比較文化とアイデンティティ」というテーマで授業をするには、どうするのが一番いいかと考えて、あのような形式の授業にしたのですが、やはり指摘通り、多少つまみ食い的になってしまった観があるのは事実だと思います。具体例を紹介し、合わせてその背景についての知識や、その問題をめぐる理論や論争を理解してもらうという形式の方が、インパクトもあるし、学生のみんなに興味や関心をもってもらいやすいし、分かりやすいだろうという狙いは間違っていなかったと思うのですが、ただ、ケース・スタディを中心に進めたがゆえに、やはり体系的な構成というのからは少しずれてしまったところもあると思いますし、また、細かい点を落としてしまったところも少なからずあり、その点、反省しています。今後の課題です。(…とは言え、横国大の授業はこれが最後だったので、今後どのような形でこの教訓を生かしていくかは、まだ分かりませんが。)でも、貴重な意見を聞かせてくれてどうもありがとう。

H.J.:アイデンティティというのは国と国、民族と民族の間の違いだと思っていましたが、実際、一年を通して先生の講義、プリント、映画によって、アイデンティティに対する認識が180度変わりました。アイデンティティとは何かについての理解だけではなく、ナショナリズム、愛国心、マイノリティ、ジェンダーについても少し理解ができたと思っています。今はこういった言葉の定義について理解しているだけですが、これからもっと深く知りたいと思っております。この授業を受けて一番良かったと思うのは、物事を多方面から見ることの重要さを分かるようになったことです。心からこの授業を取ってよかったと思います。ありがとうございました。

Y. S.:この一年間「比較文化とアイデンティティ」という講義を通じて様々な例、映像作品、文学作品を見てきましたが、アイデンティティというものは、国や文化、そして個々人のレベルでそれぞれ異なるものであるので、アイデンティティに関わる議論はまだまだ尽きない、それどころかこれからもっと議論されていくのだということを一番感じました。性に関する議論も、はじめはLG
だけだったものが、最近ではLGBTIにまでなっているように、これからも増えていくのではないでしょうか。同時に僕自身もこの授業が終わっても考え続けていきたいと思います。

T.K.:広い世界で様々な新しい文化や考え方がどんどん生まれて来て、でもそれが世界中で共感や認識されるようになるという流れ自体は、(ジェンダーとか)、やはり人種や国が変われど、人間という枠組みは世界中で変わらないものなのではないかと思わせられた。争いや差別が依然消えなくても。
非常に興味深い授業でした。いろいろと、自分と自分との違い、今まで黙殺して来た様々なことを、この目と頭で感じ、一年前との成長(大げさかもしれませんが)を思います。僕は人間(自分)は変わらなければ、もう死んでいると同じと思っています。そして楽しかったです。ありがとうございました。

大脇:この授業を通じていろんなことを考え、一年前と比べて自分が成長したように感じるという感想、本当にうれしいです。ありがとう。これからもそうして、どんなことであれ自分のアンテナに引っかかったことや、おかしいと思うこと、黙殺してしまいたいと思うことから目をそらさずにじっくり考える習慣をつけていって、どんどん成長していってほしいです。(追伸:「自分と自分との違い」という箇所は「自分と他者との違い」というつもりだったのでしょうか? 授業の終わりに急いで書いたからだと思うのですが、文章の主述関係がちぐはぐになっている箇所や、前後の論理関係が今ひとつ見えにくい箇所がちらほらとあるのが少々気になりました。 試験やレポートのときはくれぐれも気をつけてください。)

Y.N.:一年間この講義を受けて、アイデンティティは、たくさんの要素があって成り立つものであり、人種や性差だけで作られるものではなく、ひとりひとり違うものであることが分かった。そしてアイデンティティは常に、変化していく。外的要因、内的要因問わずに壊され、再構築されていく。その度に自分が一体何者であるのか苦しんだりするが、M. Choのコメディを見ていて、それすらも笑いに変えられるような、強い人間になりたいと感じた。M. Choもここまで来るのに様々な困難があったと思うが、乗り越えた彼女がとても偉大に思えた。

S. A.:マイノリティーは社会的問題と言えるが、M.Choのコメディを見ていると、自らの告白によってその問題を表面化し、マジョリティにその問題を今日有させる個人的問題提起を活発に行っていかなければならないと感じた。

K. M.:この授業を一年間を通して、社会における様々な問題を知ることができ、非常に有意義だった。しかしこの知識を実際に自分がどう消化し、自分の行動にどう反映するかというのは、非常に難しいと思う。そのことは、実際に社会に出て、どういう形で社会にこの諸問題が存在しているのかを知った上で考え、行動していきたいと思う。

大脇:知識を実際に自分がどう消化し、自分の行動にどう反映していくか、それがとても難しいというのは真実ですね。そのことに気づいているだけでも一歩前進していると思います。社会に出てから、そうした問題が社会に実際にどう存在しているかを目の当たりにし、理解や問題意識を深めるということはもちろん十分ありうることだと思いますが、でも実は学生時代だからこそ、社会の矛盾に対して、より純粋な気持ちで批判していけるということも一方ではあります。そのことも心に留めて、学生である間にも、知識を吸収するだけでなく、それを自分自身の生き方にどう反映させるか、ということを常に考え続け、実践する自分であってください。

K. O.:M. Choのトークには、ステレオタイプなどをふまえた部分が多いが、注目すべきは、そのステレオタイプの部分を全て笑いにつなげていることだと思う。ステレオタイプを笑い飛ばして、それを差別している側の人も笑って、プラスのイメージ、もしくは「そんなことはなかったのか」というふうに思ってくれれば、差別は自然になくなっていくんじゃないかなと思った。

大脇:差別が「自然に」なくなっていくことは、残念ながらないと思います(M. Choのコメディや政治的活動などは、差別をなくしていこうとする「人為的な」というか、非常に「意識的な」努力だと思います−−ので、M. Choのような人物がアメリカで受け入れられ、その結果、差別がさらなる解消の方向へ向かったとしても、それは「自然に」なくなったのではなく、様々な人々の努力の積み重ねの結果だと思います。M. Choのような人物が生まれたその背景にも、様々な人々の歴史的な努力があるわけですし)。でも、ステレオタイプを笑い飛ばし、それを差別している側の人も差別されている側の人も同時に巻き込んだ笑いに変え、プラスのイメージに変えていく、というマーガレット・チョウのコメディのパワーの核心をしっかりとつかめている点は、非常に鋭いと思います。

Y. S.:先生—−お疲れさまでした。一年間にわたって経済学部でも(私が言うのも何ですが)異色な授業、大変面白かったです。
最後にChoのコンサート(?)。こういう女性がアメリカで活躍していて、それを知れただけでも、よい知識になりました。本当にお疲れさまでした!!

大脇:「異色な」授業という点、一応、褒め言葉として受け取っておきます(笑)。

まだまだ紹介したいコメントは多数あるのですが、とりあえずここでいったんアップします。
また後日、時間のあるときに少しずつアップしたいと思います。
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by mowaki93smile | 2006-02-04 21:53 | 比較文化・授業へのコメント  

1/13の授業へのコメントから

N.T.: とんでもなくお下劣でパワフルなので度肝を抜かれた。パワフルな笑いというのはよけいな気を遣わず楽しく見ることができる。実は僕は笑いというのは社会的ないし政治的な運動においてけっこう重要な役割を担いうると思っている。歴史上の学者や思想家は「より良い社会」の設計と構想に膨大な時間を費やしてきたが、その内容は生真面目で堅苦しいものがほとんどであった。しかしより良い社会とはより楽しい社会であって、彼女?のように心底から愉快さのエネルギーを発散することが誰にとってもたやすい社会のことだと僕は思う。雄々しく、力強い、アクは強いが効き目も抜群のエンターテイメントだと思った。

大脇:「笑い」が実は非常に政治的に重要な役割を担いうるというのは真実で、この点を指摘してくれたN.T.君は相変わらずの慧眼です。来週はこの点をきちんと授業で取り上げ、解説したいと思っています。
実は私が一昨年に書いた論文で、M. Choを取り上げ、彼女の「笑い」とその政治性について論じたものがあるので、興味のある人は読んでみてください。
論文集『表現の〈リミット〉』(斉藤純一編著、ナカニシヤ出版、2005年)に所収されています。この本は、横国大の総合図書館に置いてあります。

W. I. : どちらかというと、差別を助長しがちなコメディーの世界で、それを逆手に取って活躍している姿は「美しい」と思う。

A. F. : 彼女はすごく面白くて、なんか美しく見えた。彼女がみんなに心から受け入れられている社会って生きやすいと思う。アメリカのなかにはそんな社会が出来てきてるんだな。もっとそれがアメリカ全体、世界全体に広がれば良いと思う。ストレート以外の人が生き生きする社会が良い。

大脇:偶然、二人の人が同じ「美しい」という言葉で彼女を(あるいは彼女の生き方や仕事を)形容していたことが目に留まりました。また、W.I.くんの指摘、「どちらかというと差別を助長しがちなコメディーの世界」というのは非常に重要な指摘で、「笑いものにする」対象を常に必要とするコメディーの世界は、伝統的に、白人が黒人やアジア人を笑いの対象にしたり、男性が女性を笑いの対象にしたり、異性愛者が同性愛者を笑い者にしたりするなど、人種差別や性差別が蔓延している世界でした。しかもずっと長い間、米国のスタンドアップ・コメディアンというのは、白人で異性愛者の男性がほとんどという世界でした。そういうなかで、M. Choのような人種的にも性別でも性指向でもマイノリティの人物が、この世界のなかで徐々に自分の実力を認めさせていき、これほどの人気を勝ち取ったというのは、実はかなり画期的なことなのです。

K. M. : 映画に出てくるような、美男美女の恋愛映画は、ゲイ、レズビアンまたは僕らのような普通の人から見ると、確かに等身大の物語ではないのかもしれない。実際は、Mr.クリーンやMissクリーンのような人々はいないのだということを、この女性コメディアンは教えてくれているような気がする。

R.T. : Margaret Choは、自身の容姿の悪さ、アル中、失恋、ダイエットの失敗・・・といった、負のイメージを笑いのネタにしつつも、決して自虐になりすぎることなく、多くの聴衆に受け入れられていると感じた。(ただし、英語自体はあまり聴き取れなかったが。)
さらに、同じ韓国系コミュニティの内部から批判されているにせよ、世の中のセクシュアル・マイノリティをコミカルにしゃべりながら、それを中傷におとしいれず、そういった人々から支持されるところは、大きな才能と言えよう。

S. Y. : 「彼女は韓国人らしくない」と言われたそうだが、「〜らしさ」とはいったい何か? 「〜らしさ」という言葉は消極的だ。あらかじめ作られた枠のなかに、その対象を全て閉じ込め、はみ出した人を「〜らしくない」と非難するのはどうかと。

大脇: 「〜らしさ」とはいったい何か、これは非常に重要な問いです。M. Choの舞台や生き方は、まさにそうした根本的な問いを、社会に対し、そして私たち全てに対して問いかけるものだと私も思います。

他にも興味深いコメント、鋭いコメントが多数ありましたが、とりあえず最も核心を突いているものを載せました。パソコンや機械の設定不備で時間を大幅にロスし、授業終了時間まぎわにコメント用紙を配ったにもかかわらず、大勢の人がきちんとコメントを書いてくれていて、本当に感謝感激です。どうもありがとう。新年早々の失敗でしたが、残りわずか2回(補講日を入れると3回)はこんな失態のないように、重々心がけたいと思います。
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by mowaki93smile | 2006-01-15 18:22 | 比較文化・授業へのコメント  

12/16の授業へのコメントから

N. O.: イメージの脱却、それは思いのほか難しいものだと思う…相手の我々に対するイメージを変えるためにはまず相手と我々の立ち位置を変えなくてはならない。そのためにはまず我々が相手のイメージを理解することが大切だと思う。

A. T.: 今までアジア系男性のクールなイメージはカンフーやマンガを通してしかアジア系以外の人には伝わりにくいというのは確かにそうだと思ったけど、実際私(たち)がたとえばアフリカ系男性やヨーロッパ系男性に持つイメージというのもひどく限定的でしか知り得なくて、お互いの理解というのは難しいなと今更ながら思いました。Stereotypeはぬぐい去れないものでしょうか。そうだとしても、stereotypeに縛られない状況というものは作れないのでしょうか。

大脇:私がこの授業でみんなに伝えようとしていることは、まさにその「ステレオタイプに縛られない状況をつくりだす」にはどうすればよいかを考えていこう、ということだと思います。こういったステレオタイプがどのようにして生まれたのか、そしてそれが社会・経済・文化のそれぞれのレベルでどのように機能し、どのような影響を人々に与えてきたのか…などを学ぶことが、こういったステレオタイプに縛られない物の見方や思考の枠組みを個人個人に与えてくれ、そうした見方をする人が増えることによって、そしてまたその人たちがメディアや社会経済や国際関係のあり方を変えていこうと自覚的になることによって、そうした状況を生み出すことができるのではないでしょうか?

R. F.: アジア人女性について…Kill Billを思い出した。One character was a Japanese high school student, who was actually a killer-machine working for the Yakuza clan. 私がそのキャラを面白いと思った理由は、日本人女子高校生という新しいステレオタイプと、それと全く違っているイメージを連想させるやくざのステレオタイプが混合されたキャラであったということ。

大脇:日本人の女子高校生というのは確かに現在新しい日本人女性(若いJapanese girls)の新しいイメージとして世界中に広まりつつありますね。私が外国に住んでいたときには、「ほんとに顔を黒くして白い唇と白いアイシャドーの子たちが町を歩いているの?!」などと尋ねられたことがけっこうありましたが、日本のマンガやアニメのキャラが世界中に広まっている事実とも相まって、こうした女子高校生像が新たな日本女性のステレオタイプとして加わりつつあるのかもしれません。やくざのステレオタイプとの混合は確かに奇異な感じもするけど、でも援助交際という現象もあったし(今でもあるのかな)、実はやくざと女子高校生って遠そうで近いイメージもあるのかもしれないですね。まあKill Billの場合は、監督のクェンティン・タランティーノが自分の偏愛する(それこそ昨日の授業でちらっと説明した「フェティッシュ」として偏愛している)日本映画やマンガ、そのなかのヤクザやサムライや女子高生などのキャラ、それらすべてをごった煮にした映画なので、そうした「新キャラ」がスクリーン上に登場するのもまったく不思議ではないのですが。

A. F.: メールオーダーブライド?! 
なんか21世紀と思えない制度です。女性も納得してやってるから人権侵害にはならないのかもしれないけど、今の私と同じ生活水準にある女性のうちどれだけの人がそういった形の結婚を望むかを考えれば、生活水準の違いによって女性が決して望まないであろう結婚は、女性が本当には望んでいない結婚だと思います。早くなくなってほしいです。

大脇:まずひとつ確認。コメントには「メールオーダーブランド」と書いていましたが、「ブランド」ではなく、「ブライド」です(花嫁=bride=ブライド)。ただの書き間違いかもしれませんが、念のため。
メール・オーダー・ブライド(mail order bride:花嫁の通信販売)の問題は実は非常に大きな問題で、私は昨日の授業の後のみんなのコメントでも、このトピックに関するものがもう少しあるのではと思っていたのですが、結果としてはこの一枚のみでした。で、このようなコメントがあったことはとてもうれしかったのですが、いくつか、私の説明が至らなかったところがあったようなので、誤解していると思われるところを正しつつ、補足説明します。
 まず「21世紀と思えない制度です」とあるのですが、これは「制度」ではなく「ビジネス」です。これを国が支援して「制度」としてやっていたら、それこそ言語道断でしょう。そしてビジネスといっても違法すれすれで、インターネット上で展開されているビジネスであるために検挙がされにくく、法律でなかなか取り締まれないという現況を利用して、こうしたブローカー業者が暗躍しているというのが実状です。
 そして次に、「女性も納得してやってるから人権侵害にはならないのかも」とあるのですが、実はここに大きな問題と議論の争点があるのです。確かに、こうしたメール・オーダー・ブライドのサイトに自分の顔写真や名前を登録している女性たちは、「自分の意志で」あるいは「納得して」やっていると思われがちだし、実際それを言い訳にして、こうした業者や花嫁を買う(主に第一世界の住人の白人)男性がたくさんいるわけですが、でもここで一歩引いて考えてみてください。こうしたサイトに登録している女性たちの大部分は、たいてい第三世界の貧困層の女性たちです。今日明日の暮らしをようやくしのぐような生活に汲々としている家庭や地域に育った彼女たちは、自分の家族や国を離れてでも、まったく見知らぬ人に嫁いででも、何とか現金を手にしたい、あるいはアメリカ行きの切符を手に入れたい、との絶望的な願いから、こうしたサイトに登録しているというのが現実です。そしてこうしたサイトの運営をしているブローカー業者たちは、こうした彼女たちの絶望的状況を利用して、甘言で彼女らを巧みに誘い、サイトに登録させているのです。その後、彼女たちがどんな人に買われようが、どんな暮らしをすることになろうが、彼らはもちろん意にも介しません。彼女たちを「買う」人物が、常に「いい人」であると限るわけではないのは無論のこと、彼女たちをたとえば売春婦として使ったり、ポルノ映画に出させたりなど、商売目的の人もいないとは限りません。そうしたときに一番問題となるのは、ほとんどの場合、mail order brideとして異国へ来た彼女らには、「こんなはずではなかった」という状況になったとしても、後戻りができないということです。彼女らには自分の国に戻る費用も、法的な手段も何もないことがほとんどだからです。

 というわけで、彼女たちも合意の元でやっているのなら人権侵害ではないかもしれないといったんは考えたものの、自分と同じ生活水準にある女性ならそんな結婚を望むとは思えない。だからやはり問題なのではないかと考えたAさんの直感は正しかったわけです。こういう想像力や感受性をもつこと、そしてそうした自分の関心を引いた問題について調べようとする探究心や行動力をもつことがとても大事だと思います。
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by mowaki93smile | 2005-12-19 06:43 | 比較文化・授業へのコメント  

11/11の授業へのコメント

A.I.: 大行進のDVDで"black men""white men"という言葉が聞こえてきた。公民権運動時のことは詳しく知らないので憶測になってしまうが、女性の人権についてはあまり問題として取り上げられなかったのだろうか。フランスの市民革命などでは原動力となった女性たちについて革命後はないがしろにされてしまったように思う。自分たちに対する差別に抗議の声をあげる人たちのなかにも差別が内包されていたのだろうか。

大脇: そう、市民革命や公民権運動、日本の労働組合運動など、フェミニズム運動が出てくる以前の時代の市民運動や人権運動のほとんどは、女性や子供への視点が抜け落ちたものだったというのはそのとおりです。慧眼ですね。女性が声を上げはじめるまでの時代、"man"という言葉がすなわち「人」や「人間」を指していたことに如実に現れているように、女性や子供は、人権を守られるべき「人」として見なされていなかったのです。そのために、市民運動の指導者と仰がれていた人物でさえ、「奉仕=女性の役割」という差別構造を何のてらいもなく受け入れ、女性活動家の同志に食事や身の回りの世話などすべてやらせることを当然の特権として享受し、(意図的にか結果的にかの違いはともかく)女性を搾取する構造に加担していたという、なんとも皮肉で歪んだ状況が、多くの運動に見られました(たとえば、インド独立の父であり非暴力運動の父として名高いガンジーでさえ、女性差別に関しては批判されています)。「人間解放」を謳うまさにその運動が、その内部に別の差別(=性差別)を内包していたという、とても皮肉で歪んだ状況があったわけです。

実はこの問題は来週か再来週以降からとりあげるつもりだったのですが、授業でその話をする前に、既にここに気づいたA.I.さん、本当に鋭い洞察だと思います。

ただし、これはMartin Luther King Jr.牧師を積極的な性差別者であると見なしているということではありません。彼の生涯のパートナーであったCoretta Scott Kingは、キング牧師存命中はやはりどちらかというと背後で彼を支える役割に回っていましたが、彼の死後は、自ら公民権運動の指導者的役割を担うようになり、また同時に女性の権利のための運動や性的マイノリティ(gay/lesbian)たちのための運動にも尽力しています。キング牧師が、"black men and white men"という呼びかけで、全ての人間を意味してしまったのは(ちなみに女性だけではなく、アジア系やNative Americanの人たちもここからは抜け落ちています)、いかに優れた人でも、やはり時代の制約から逃れるのは非常に難しいということでしょう。常に時代の先を読みとる能力ーーーというよりも、その時代の渦中に潜んでいるがまだ光の当てられていない問題を読み取り、率先してその問題を解決していこうとする能力と意思、それを身につけることこそが、大学のような場所で学ぶ意味だと思います。
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by mowaki93smile | 2005-11-15 00:20 | 比較文化・授業へのコメント  

10/28の授業について その2

S.Y.: 先日、筑紫哲也の「ニュース23」で「愛国心特集」をやっていたので、ビデオ収録した。まだ見ていないが、今後の授業で愛国心について触れることがあるのであれば急いで見ようと思う。

大脇:愛国心の問題は、いつかもう一度きちんと取り上げなければと思っていました。夏休みのレポートで愛国心をテーマに取り上げてくれた人も何人かいるようですし(実はまだ全部は目を通せていません;-)、レポートを全て読み終えた頃に、一度時間をとって話をする時間を持てたらなと思っています。ですので、ぜひその特集を見て、どんな内容だったか、前もって聞かせてもらえるとうれしいです。授業でみんなと見るために、場合によってはそのビデオを借してほしいとお願いするかもしれません。
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by mowaki93smile | 2005-11-01 16:03 | 比較文化・授業へのコメント  

10/28の授業について

28日の授業では、教員の忘れ物と機械操作の不手際などのために、たびたび授業が中断してしまい、本当にすみませんでした。
そのせいで肝心の音楽を聴いてもらう時間が少なくなり、非常に中途半端な感じになってしまい、私としてもとても反省しています。もしかすると私の不手際のせいで、これらの音楽の魅力を十分に伝えられなかったのでは・・・と心配していたのですが、意外にも、学生のみんなからは、「最後にかかっていた曲がよかった」「次回にもっと音楽を聴きたい」「プロテスト・ソングも興味があるので、聞いてみたい」「黒人とジャズの歴史は非常に興味深かった。アジア系の音楽についても、もう少し詳しく知りたい」という声がたくさんありました。
ですので、次回の授業(11/11)では引き続き音楽のテーマを取り上げ、アジア系アメリカ人の音楽や当時の状況についてもう少し丁寧に説明し、今回の授業で聴いてもらえなかった曲や演奏もたくさん聞いてもらえるように心がけたいと思います。
その後、できれば今回プリント配布した文学作品についても見ていきたいと思いますので、こちらもできるだけ次回までに目を通しておいてくださいね。
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by mowaki93smile | 2005-10-29 11:37 | 比較文化・授業へのコメント  

10/14 の授業に対するコメント

宗教について
S.S.君:「宗教を悪と考えるのは単純」という言い方はないと思う。あくまでそれは先生の意見であるし、多くの意見を認めるといった授業にそぐわないのではと思います。私はメディア戦略などもふまえて、あまり宗教に良いイメージないです。怒って反論しているわけではなく、客観的にそれはないなと思いました。

大脇:貴重な批判意見ありがとう。こういう意見は、私の言葉が足りなかった点やうまく伝わらなかった点がわかり、私の意見をもっときちんと伝えるための議論の場を提供してくれるので、大歓迎です。
で、「宗教を悪と考えるのは単純」という私の発言(とS君に聞こえたもの)に関してですが、私の意図がうまく伝わらなかったように思うので、ちょっと補足させてください。
まず、授業で私がこの話をしたときに意図していたのは、「イスラム教/ムスリム(イスラム教徒)=悪、危険、カルト的」と一元的に考えるのは単純なのではないかということでした。もう少し詳しく言うと、イスラム原理主義とイスラム教全般を同一視させることによって、そうしたイメージをメディアその他で人々の心の中に浸透させ、そのうえで、アメリカが行う対イラク戦争を、「イスラム教とかムスリムというのはやはりどこか得体が知れないし、危険な感じがする・・・」という、人々の漠然とした不安感を利用して、対イラク軍事攻撃を続けているアメリカの言説にのせられてしまうのは単純なのではないか、ということを言いたかったのです。
・・・が、授業でみんなの前でマイクを持って話していると、どうしてもうまく言葉が出てこなかったり、言いたいことを全て言えなかったりで、論理が単純になったり雑になったりしてしまい、なかなかうまくみんなに私の思いを伝えられません。とてももどかしいのですが・・・。
毎回試行錯誤の繰り返しですが、今後も努力しますので、どうかまた疑問に感じた点やそれは違うのではと思った点があれば、いつでも指摘してください。

宗教そのものをどう考えるか、というのは、これはS君の言うとおり、さまざまな哲学者や文化人類学者や社会学者たち、そして宗教学者たちが長い議論を続けてきていることからも分かるとおり、人によってさまざまな捉え方があり、わたしたちが常に問い続けていくべき問題なのではないかと思います。
私自身、たとえばアメリカのカルト的新興宗教に対しては非常に批判的ですし、さまざまな宗教が、「聖戦」という名目で殺戮や戦争を行ってきた歴史があることも知っていますし、自分はどちらかというと無宗教の人間なので、正直に言って宗教に深くのめりこむ人の気持ちは(頭では理解できても)感情レベルではよくわかりません。ですが、一部の新興宗教が宗教の名目の下にひどいことをしているとか、一部の権力者たちが、これまた宗教や聖戦の名の下に、実はその宗教の目指すものとはまったく逆の行為(戦争や殺戮や搾取や差別など)を行ってきたことと、宗教そのものを悪と見なすこととは、区別すべきなのではないかと思います。そうした意味では、やはり最終的には、私は「宗教=悪と一元的に決め付けてしまうのは単純」だという意見になるかもしれません。

いずれにせよ、どんな宗教であれ、またどんな国籍、人種、民族、文化であれ、そのなかに住んでいる人々は必ず一人一人多種多様なアイデンティティを持っていて、いろんな利害や思惑を持って生きているものですから(それは自分と自分の周りの友人のことを考えてみてもすぐにわかると思います。たとえば同じ日本人だから、あるいは同じキリスト教者だからと言って、みな同じ考え方や意見をもっていることはありえませんよね)、それをただ「宗教」という枠組みだけで外からひとつの集団・カテゴリーとして決めつけ、集団として差別し迫害し攻撃の対象にすることは、非常に問題だ思います。そうした行動は、必ず暴力による反撃を引き起こすものなのではないかと思います。


アイデンティティという言葉について

今日の授業ではかなり詳しく説明したつもりだったのですが、私の説明のしかたがよくなかったせいか、まだ「アイデンティティ=ナショナル/カルチュラル・アイデンティティ」と誤解しているように見受けられるコメントがいくつかありました。
くどいようですが、アイデンティティというのは、自分を形成するいろんな軸や要素からなりたっている複層的なもので、その中のひとつにナショナル/カルチュラル・アイデンティティ(たとえば日本人というアイデンティティ)もある、ということです。

また、「発表を聴いて、自分も外国に行って自分のアイデンティティを見つけたい(または日本人としてのアイデンティティを確立したい)と思った」という意見がちらほらありました。これらの意見に対して私は何となく違和感を感じてしまったのですが、その違和感がどこから来るのか、できるだけ分かりやすく説明してみたいと思います。

今日の発表者の一人、武内君のように、「外国に行って、はじめて日本の良さを発見し、日本が好きになった=日本人としてのアイデンティティがネガティブなものからポジティブなものになった」というのは、非常にすばらしいことだとは思います。←ので、この点に関して違和感を述べているわけではないので、念のため。
ただ、それに対して、「自分も外国に行って自分のアイデンティティを見つけたい」という感想については、いくつかの点で違和感を感じます。それは、
(1)これはあくまで武内君のケースであって、外国へ行ったからといって誰もが同じプロセスを辿るわけではない。また、必ずしも外国へ行かなくても、自分のアイデンティティについて考えたり、アイデンティティを探したりすることはできる(また、たいていの人はそれに気がついていないだけで、実は日常的にそういう作業を無意識に行っているのではないかと思います)。
(2)「日本人のアイデンティティをもつこと=良いことで、日本人としてのアイデンティティを持っていない、あるいは確立していないこと=イケナイこと、自覚が足りない」のように思っている人が、こうしたコメントをしてくれた人の中には多いように思うのですが、これも少し「んん??」と思うところです。
一口に「日本人としてのアイデンティティ」と言っても、それはポジティブなものと、ネガティブなものと、両方ありえますし、また両方が一人の中で共存していることももちろんありえます(というか、ほとんどの人はそうだと思います)。
アジア系アメリカ人たちの例を引いて説明したように、自分の人種や国籍などが理由で差別や迫害を受けている人たちがもつナショナル/カルチュラル・アイデンティティというのは、ポジティブなイメージを主流文化から与えられることがほとんどなかったわけですから、えてしてネガティブなものになりがちです。自分のナショナルあるいはレイシャル・アイデンティティがそういうネガティブなものにしかなりえない場合、たとえば日系アメリカ人なら、「日本人としてのアイデンティティ」は、どちらかというと忌避すべきものになってしまうという、悲しい事態が起きてしまいます。
また、彼らはこれを逆にポジティブなイメージに転換しようとして、いろいろと運動を起こしていったわけですが、そうした差別を受けている中で自分の文化を優れたものとしてとらえようとするあまり、今度はそれが自民族・自文化中心主義になったり、ナショナリズムにつながっていったりする危険がでてくることになります。

そうしたことを考えると、私は、日本社会のなかに住んでいて、自分の日本人としてのアイデンティティを意識しなくても暮らせること、それ以外のアイデンティティを自分の中で追求できることは、必ずしも不幸なことではなく、ある意味幸せなことなのではないかと思います。

ただもちろん、外からは日本人がどのように見られているかを知り、それによって自分の行動の直すべき点は直すこと、あるいは日本のよさを(日本にいようが外国にいようが)認識し、自分の国に誇りをもつこと、また誇りが持てるような国にしようと自分にできることをすること、などはとても重要なことではあると思いますが。これを日本人としてのアイデンティティと仮に呼べるとすれば、それはもちろん持つように努力すべきものかもしれませんね。
でもこれは外国に行ったからといってすぐに得られるものではないし、また逆に日本にいてもそういう視点をもつことはできるものだと思います。
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by mowaki93smile | 2005-10-14 18:42 | 比較文化・授業へのコメント  

6/24の授業へのコメント

Kくん: いつの時代、どこの国でも、多くの、あるいは一部の人々が共有しているタイムリーな不安を利用し、あるいは煽って敵を仕立てることによって国家(多くの国民)を一方向へのベクトルにまとめあげて強くさせる。そうして自分達を守ろうとするというのは人間の悲しい性なのかと思います。(そこから抜け出そうとすれば、コナー警部のように扱われてしまうし。)結局のところ、それは大義名分をつくろっているに過ぎないのに。過去の歴史や今の世界情勢がそれを物語っていると思います。小さな世界、教室の中で起こるイジメも同じことです。群集心理とは怖いものです。一番怖いのは、自分がその中にいるということに気付かないで生きることだと僕は思うけれど。

大脇:私の言いたかったことをほぼそのまま代弁してくれているかのようなコメントです。次回の授業(7/1)は、この問題について、クラスの一人一人みんなにさらに深く考えてもらえるようなものにしたいと思っています。

Nくん: 最近、というかここ数年、いわゆるハリウッド映画を見ていない。いい加減な設定で、描かれる側の立場を全く考えていない。メディアの一発信源であることを自覚していないのではないかと思う。

大脇:このコメントを受けて言いたいことが二つ。まず、「ハリウッド映画」を映画芸術として見たときの、好き嫌いについて。実は私も、数年前まではハリウッド映画はほとんど観ない派でした。もちろん一口にハリウッド映画と言っても非常に巨大な産業ですし、いろんな監督がいていろんな映画がありますから、中にはとても好きなハリウッド映画もありますが、先日の授業で見せた『ライジング・サン』のような映画(アクションものとかスリラーもの)や、戦争・アメリカ賛美映画(『パール・ハーバー』や『インディペンデンス・デイ』)は、ほとんど観ようともしませんでした。今でも、映画そのものとして観る際には、いわゆるハリウッド映画よりも、ヨーロッパやアジアのミニシアター系・インディペンデント系のものの方が好きです。
ですが、ハリウッド映画の影響の大きさを考えれば、アジア系アメリカ文化や、日米関係、そしてアメリカ文化そのものについての研究には、このアメリカの一大産業についての視点や分析は不可欠です。それに気づいてから、最初はあまり気が進まないながら、これまでは自分では観ようとも思わなかったジャンルのハリウッド映画も見はじめたのですが、実際に見はじめてみると、(映画そのものとしての完成度や芸術度は別としても)研究対象という視点から見れば、これらの映画が非常に興味深いものとして楽しめることがわかってきました。20世紀は世界的に見ても映像の世紀ですが、その最も端的で象徴的な例が、アメリカの文化・政治・経済においてハリウッド映画(産業)が果たした役割だと思います。アメリカという国は、ハリウッド映画とともにその国の形を作ってきたと言ってもいいかもしれません。
 で、Nくんのコメントに関して言いたかったことの第二点は、上記に述べたことともつながっているのですが、ハリウッド映画が「メディアの一発信源であることを自覚していない」ということはありえません。むしろその正反対です。そしてハリウッド映画産業の内部と外部両方に、その力を最大限に(政治的に)「利用」しようとする勢力が多数存在しているからこそ、「描かれる側の立場を全く考えていない」映画が多く生まれてくるのだと思います。

「他人事」?
Mくん:この映画は・・・アメリカ人たちに日本文化を教えている場面が多々あったが、かなり大げさに演じられていた。しかし、日本のイメージはこの映画みたいな感じであったのだろうと思い、昔よりは大分変わっているが、もう少し改善されていくといいと思った。
Tくん:1993年、日本経済の発展もあり、だいぶ日本に対する見方も変わってきている。ただ、まだ日本文化に対する敵意や理解不足が垣間みられる。私たちも本当に外国の文化を理解しているとは言いがたいが、映画として世界に発表するのであれば、しっかり勉強してほしい。

大脇:これはなんだか「他人事」のようなコメントですね(笑)。この二人に限らず、似たようなスタンスのコメントがこれまでにもけっこうあったので、この二人だけに言う訳ではないのですが、ハリウッド映画がアメリカの政治や、日米関係と密接な関係にあることを考えると、こんな他人事のようなコメントを言っている場合ではないと思います。ほんとに。
このブログサイトやこれまでの授業を通して私が伝えようとしてきた大きなテーマの一つは、ハリウッド映画(産業)と、アメリカ文化・政治・経済、そしてそこに描かれてきた日本像と、日米の政治・外交・経済関係とは密接に関係しているということ、そしてその歴史に学ぶことによって、今後の展望をどのように描いていくかを考えるようになってほしいということです。これまでの歪んだ関係を改善していくためにはどうすればよいのか、そのために自分は何ができるのか、何をすればよいのかを、一人一人が考えるようになってほしいのです。日本文化がハリウッド映画に戦後何十年たってもまだこのように描かれていること、言い換えれば、アメリカ人にとっての日本文化のイメージがこのようになかなか変化しないということ、それはつまり、アメリカ人の日本のイメージを一新させるほどの情報発信を日本がしてきていないということでしょう。これまで、アメリカ側の情報やヨーロッパの情報を一方的に受信し、咀嚼し、catch upする方にばかり回っていた日本は、今ようやく世界に向けて情報発信をする道を模索しはじめたばかりのように思います。ですので、「改善されていくといいと思う」ではなくて、「どうすれば改善できるのか」を考え、発信できる人間になってください。横国大の経済学部を卒業するみんなのなかには、近い将来、国の経済政策決定、経済法の立法やその運用、海外進出する企業の方針決定や海外先での任務などに関わる人も少なからず出てくると思いますので。
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by mowaki93smile | 2005-06-26 11:41 | 比較文化・授業へのコメント  

6/17の授業へのコメント

*映画やメディアがプロパガンダ(ある特定のイデオロギーや考え方の宣伝)として機能するメカニズムについて
また、そのメカニズムが戦時中のみでなく、現在も利用されている点について

Iくん:今も昔もメディアの民衆に与える影響が強いことは変わらないと感じた。プロパガンダ映画もそうだが、全て「事実」を扱っていても、事実を抽出し、編集する主体の感情(ときには悪意)によっては、真実とは異なる単なるエンターテインメントにしかなり得ない点が現在にも通じると思う。それを多くの民衆が真実と受け止めてしまう点を利用する点は、戦争のような狂気の時代には有力だったのだと感じた。
S.Kくん:アメリカを描いた日本側のプロパガンダ映画もあるのでは? 機会があれば見てみたいです。最近のハリウッド映画、たとえば『アルマゲドン』、『インディペンデンス・デイ』なども、「アメリカは世界のリーダーで、危機から救う力を持った国である…」というメッセージが聞こえてくるような気がします。(大脇:日本側のプロパガンダ映画も見てみたいという声は他にもありました。検討してみます。)
Nくん:数年前公開された『パールハーバー』では、日本人の残虐な攻撃が生々しく描かれ、アメリカで住む日本人や日系人が抗議デモを行っていたと聞いたことがある。
Iさん:ハリウッド映画は敵を設定して観客の興味を引きつけるものが多い気がする。
H.Kくん:戦争中に反日プロパガンダ映画が出てくることはある程度お約束だとしても、21世紀の今になっても『パールハーバー』のような映画を作るアメリカという国は、常に敵を作らなければ満足できない国なのではと思えてくる。

*「戦争のルール」という表現の皮肉さについて
Yくん:「戦争のルール」という言葉が逆説的なようでとても面白い。(中略)「戦争はなくならない」と言ってしまっているような皮肉的な言葉。
T.Kくん:戦争において日本軍が残虐な行為をしてきたというのは事実であり、パールハーバーをはじめ、中国での三光作戦等は許しがたい行為だと思う。しかし極論を言ってしまえば、戦争に美学なんてものは存在しないだろう。
T.Kくん(上記とは別人):戦争のルールという言葉が出てきましたが、国際法というのはそれが適用されるために全ての国がそれに同意し、そういった組織が必要であると思うので、戦争における戦争のルールというのは実現しがたく、現実的に実現するとすれば一方的な権力の主張になりかねない気がします。

大脇:上記三人とも、「戦争のルール」という言葉の皮肉さに着目した点、とてもセンスがよいなと思いました。ただし、アメリカ側が「戦争のルール」という表現や概念を用いた点について、その背景や事情などを少し補足説明しておく必要があると思うので、ここでごく簡単にまとめておきます。
(米国側の視点からすると、)(1)真珠湾攻撃の行われた1941年12月の直前まで、米国は日本と和平交渉を進めていた。日本は和平交渉に応じるかのようなそぶりをしていたくせに、突然真珠湾攻撃を行った。(2)真珠湾攻撃は宣戦布告、攻撃予告もなしの卑劣な奇襲攻撃だった。(3)日本側はこの奇襲攻撃計画が米国側に悟られないよう、南方のフィリピンへ囮の艦隊を派遣したり、偽の通信を頻繁に送るなど、入念な偽装を行っていた。
(日本側の視点からすると、)(1)米国のすすめていた「和平交渉」の内実は、現実には日本には到底のむことが不可能な全面的無条件降伏を迫ることだった。また米国は、1941年7月頃より、米国内の日本資産の凍結や石油輸出禁止などをはじめとする、日本に対する強硬な経済制裁を行い、日本を追いつめていったので、日本の軍事政府は和平交渉を放棄することを考え始め、9月頃には対米開戦することを決意するに至った。(2)(3)日本政府は、外務省の手違いによって宣戦布告が遅れたと主張したが、米国には受け入れられなかった。(これには諸説あり、本当にただ遅れただけなのか、それともやはり最初から奇襲攻撃するつもりだったのかは明らかではない。ただし、日本側がかなり周到にこの攻撃の準備を進め、そのための偽装工作を行っていたことは確か。日本には義経の「ひよどり越え」(一の谷の合戦での奇襲攻撃)の伝統(?)もあるし、奇襲攻撃とは戦争にはつきもの、という考えが当時の軍司令官たちの頭にあった可能性はかなりあると思います。)

こうしてみると、両者ともそれぞれに言い分があるとも言えますが、やはり究極的には、上記の三人が指摘してくれたように、「戦争のルール」という言葉は「戦争」そのものの不条理性を覆い隠す逆説的な言葉であり、そもそも戦争に加担・参戦した時点で、相手の卑劣さをどうこう言える立場ではなくなるのではないか、というのが私自身の考えです。
いずれにしても、米国側からすると、日本の行動が卑劣な「騙し討ち」行為であり、真珠湾攻撃は9.11のテロ攻撃と同様のテロ攻撃に他ならなかったということは確かです。今回の授業で紹介したルース・ベネディクトの『菊と刀』の冒頭(第一章「研究課題ーー日本」)にも、「我々は、我々より前に1905年に日本と闘った帝政ロシアと同じく、西洋の文化的伝統に属さない、完全に武装され訓練された国民と、闘っていたのである。西洋諸国が人間の本性に属する事柄として承認するに至った戦時慣例は、明らかに日本人の眼中には存在しなかった。」などと書かれています。

*『菊と刀』について
ルース・ベネディクトの古典的名著とされるこの本に興味を持った人たちがかなりいたようです。今後の授業で、もう少し詳しくこの本やこの本をめぐる議論について、紹介することを検討してみます。

*あと、前に読んだような文学作品が読みたい、という声も若干一名ですがありました。そういう人は他にもいるでしょうか? (だとすると嬉しいのですが。)
今後、アジア系アメリカ人側からのアジア人/アジア系アメリカ人の表象というテーマのなかで、文学作品も少しずつ取り上げていく予定です。
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by mowaki93smile | 2005-06-20 18:36 | 比較文化・授業へのコメント  

6/3の授業へのコメント その3

Tさん:他国製品を大量消費している今、日本は東南アジアなど労働力の安い地域の人々を搾取していると言える。搾取されたことで受ける経済の被害を考えると、日本との折り合いをどこでつけるのか本当に難しいところだと思う。私の個人的な考えでは、許容される範囲での搾取は東南アジア諸国に決して悪影響は与えないと思う。他国から刺激を与えられることで、自国の経済も発展を促されるのではないだろうか? でもこれは私が日本という豊かな国にすんでいて、実際の東南アジアの現状をあまり詳しく知らないから言えることだとも思う。やはり何よりも先にお互いを知ること、それが一番大事なことだと思った。

大脇:このコメントには重要な論点が2点示唆されていると思います。(1)日本は東南アジアなど労働力の安い地域の人間を搾取している。しかしその日本の経済活動には、許容される範囲またはやり方がありえるし、それがその国の経済の発展を促しているなら、悪影響ではなく、かえってよい影響を与えているのではないか。という主張と、(2)しかしいずれにしても、それ(=相手を搾取するのではなく、相手の経済発展を助ける形でその国の労働力を活用すること、とまとめられるでしょうか?)はその国の経済事情や文化事情など、現状をよく理解しなければ達成できないことであり、それには何よりも先にお互いを知ることが大切である。という主張です。
(ここで一言指摘しておくと、「許容される範囲での搾取」というのは矛盾した言い方です。「搾取」というのは、それが許容範囲を超えた経済活動であるからこその呼称です。おそらくTさんがここで言いたかったのは、「許容される範囲での経済活動(=安い労働力を求めての経済進出と、その国の経済開発支援の両方を含む?)」のことだと思います。)
(1)の論点に関して:後進開発国(=低賃金労働力が売り)における、先進国の経済活動として、許容される範囲あるいはやり方とは、どんなものでしょうか? その国を経済的に搾取するかどうかという観点だけではなく、その国の文化(=人々の精神のあり方も含む)や自然に与える影響という観点をも含めたとき、私たちはこれから、どのような経済活動を構想、実施して行くべきなのでしょうか?
(2)の論点に関して:まさにそのとおりだと 思います。互いの現状や実情を正しく理解し合うこと(先進国と後進国の関係の場合は、まず、メディアなどのインフラが整っている先進国側から、相手の理解に向けた努力をすること)が、何より大切だと思います。
そして文学や映画は、そのための知識や想像力を養う、最も効果的な手段の一つだと思います。そしてさらに、文学や映画を、批判的視点をもって見ること、そういう批判的思考力を養うことが、それには非常に重要になってきますね。
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by mowaki93smile | 2005-06-10 01:00 | 比較文化・授業へのコメント